ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第11回
1人の青年の死が、何年経っても僕の頭から離れない。いったい彼は、なぜ、あのとき、あの場所で、あのような死に方をしたのだろう。その青年の「不在の存在」が、僕に1本のドキュメンタリー『激突死』をつくらせた。1978年5月、日本テレビ報道番組の専任ディレクターになって間もないころだ。
青年の名は上原安隆、享年26。沖縄出身。青春の真っ只中、周囲の人たちも予期せぬ「唐突な死」だった。現場の状況から警察は「自殺」と断定したが、遺書はなかった。愛車のナナハンにまたがり、時速80キロの猛スピードで国会議事堂正門の閉じられた鉄扉に、生身の身体を叩きつけた。それが沖縄の日本「復帰」1周年目の5月だったのはなぜなのか。
《彼の気持ちの中には、日本への絶望だけが募っていたんだと思いますよ。政治の話になるといつも苛立ってましたからね。だってそうでしょう、子供のころから僕らの村はずっと戦場……》
こう話したのは、上原安隆さんと共に川崎市内の運送会社で働いていた同郷のKさん(当時34歳)。「自殺」の原因をめぐり、沖縄、東京、神奈川と彼の家族や職場の仲間たちを訪ね歩いて見えてきたのは、軍事基地に覆われた沖縄〈闇〉の深さと暗さであった。
上原さんが幼少年期を過ごした恩納村喜瀬武原(きせんばる)は、南北に130キロの細長い沖縄島のほぼ真ん中、山と山に挟まれた一見のどかな農村だ。だが、ひとたび米軍演習が始まると様相は一変した。
村を貫く県道や学校の上空を、日に何百発もの砲弾がよぎる。砲身をむき出しにした戦車が我が物顔で集落内を走る。ときには授業中の小学校の校庭にまでライフル銃を持った米兵が入ってきて走り回る……。
そんな中で、彼は道端に散乱する銃弾の薬きょうや不発弾を拾い、廃品業者に持ち込んで現金に替えたり、米兵食べ残しの野戦食の缶詰などを食卓に広げ、母子3人の暮らしの糧にしたりした。
《彼に限ったことではないですよ。安隆の家だけがとくに貧しかったわけではない。基地と背中合わせで暮らしていた人はみんなそう。危険と分かっていても、生きて行くためには弾も拾うし、残飯もあさる》
Kさんはこう言う。すべてが軍事優先の米軍統治下、健康保険制度ひとつない歪んだ社会の中で、多くの庶民は生きるのに必死だった。米兵絡みの事件事故も日常茶飯事だった。
「海の男」を夢見て那覇の水産高校に入ったのは15歳のとき。しかし学費が納められずに中途退学。その後は基地の街・コザ界隈で電気店店員や米兵相手のキャバレーのボーイなどを転々とした。そして1971年、ベトナム帰りの米兵があふれる沖縄を脱出、東京・新宿のタクシー会社に職を得た。夢にまで見た東京の街でハンドルを握る日々……。優良運転手として表彰もされた。欲しかったオートバイ「ナナハン」も手に入れ、休みの日には沖縄出身者の多く住むに川崎市にドライブに出掛けた。
そのころ、1972年の「沖縄復帰」をまじかにして、国会では日米両国政府が交わした返還協定をめぐり激しい攻防が続いていた。
「沖縄の返還は、全ての基地を撤去し県民が安心して暮らせるものでなければならない」とする沖縄県と野党各党に対し、政府は「基地の自由使用」「非常時の核持ち込み」の密約を米国と交わして、国会での批准に持ち込もうとしていた。
何を言っても聞き入れない政府と、その施策の追認機関と化した与党自民党。業をにやした琉球政府の屋良朝苗主席が、沖縄の将来像をしたためた国宛ての建議書を手に沖縄から上京。氏が乗った飛行機が羽田空港に降りたった、まさにその時間に、衆議院沖縄特別委は米軍基地の固定化を盛り込んだ返還協定を強行可決したのであった。
安隆さんの国会議事堂正門への体当たりは、同郷の仲間たちと川崎市内のアパートで暮らし始めて1年目、沖縄返還からもちょうど1年経った1973年5月。友人と銭湯へ行き、きれいにひげを剃って戻ると、黙ってナナハンにまたがり、高速道路を突っ走って一路永田町を目指した。
彼が被っていたヘルメットには、議事堂の鉄扉激突時に刻まれた柵の痕跡がくっきりと残った。国会当局は傷付いた鉄扉の損害金を「当事者死亡による免責」処分とし、へし曲がった柵を素早く修復、現場からすべての痕跡を消した。
「復帰により縮小された基地面積は、全体の0.09%」
「県民の62%は復帰に期待外れ」
沖縄の新聞は「復帰1年目の現実」をこう伝えたが、政治も国民も、まるでこの国に沖縄問題などなかったかのように「沖縄離れ」が進み、世の中の関心は経済の向上に向いていた。
《日本に復帰しても昔のまんまさ。なんにも良くならない。今も昔も沖縄はいじめられっぱなし。誰だって怒るでしょう》
安隆さんの幼なじみのAさん(当時28歳)はこう話す。
安隆さんがバーテンをしていたころ、コザ市(現在の沖縄市)で大きな「事件」が起きた。市民らが米兵のクルマ80台を焼き放った「コザ暴動」だ。酒酔い運転の米兵の運転するクルマが住民をはね、現場を取り巻いた市民らに米憲兵がピストルを威嚇発砲したのが発端だった。群衆は数千人に膨れ上がり、基地の街の表通りは火の海と化した。
その群衆の中に、23歳の上原安隆さんもいた。大勢の人々が燃え上がるクルマを囲んで指笛を吹き、かチャーシーを踊っていた。
《ウチナーンチュの哀しみが分かるか ! 。沖縄問題を国際問題に発展させて、沖縄人の人権を認めさせなければならない ! 》
これは、その騒動の中から聞こえてきた一市民の叫び声。安隆さんの思いもきっと同じだっただろう。
弱冠26歳の上原安隆さんが、命を賭して「声なき声」をぶつけた国会議事堂。その周辺には、いま連日のように数千人、ときには数万人ともいわれる市民が押し寄せ、反戦の声を上げる。
原発再稼働ゼッタイ反対、憲法壊すな9条守れ、戦争法はいますぐ廃止、辺野古新基地ゼッタイ反対、安倍政権はいますぐ辞めろ……。
声は大きく、激しく、限りなく熱い。耳も目も塞いで暴走する安倍政権の、その異常さに、この国の軍国主義化に、国民の多くが、ようやく〈沖縄〉を重ね合わせるようになったように、僕には見える。〈オキナワ〉はもう〈影〉ではなく、はっきりとした〈像〉となって「1億国民」の前に姿を顕わしたのだ……。
ここまでくるのに40年もの日月を要した。その、なんとも不毛に思える歳月の長さ。でも、今はそれは良し、としよう。
しかし、である。眼前にそびえ立つ議事堂の中の、あまたの議員たちの中に「沖縄の26歳の死」を知る者は果たして何人いるだろうか。首相官邸の中でこの国の政治を取り仕切る政治家たちにも、あの「不幸な死」を知る者はいないに違いない。
もし、いるとするならば、いま辺野古のゲート前で、大浦湾の海上で国がやっているようなことはできないはずだ。警視庁機動隊や海上保安庁の者どもの、死者をも出しかねない手荒で、敵意むき出しの「警備行動」は、誰が見ても尋常ではない。
44年前、上京した屋良主席が携えてきた「建議書」は、返還協定の採決強行で、国に届くことはなかったが、以下はその中の一部だ。
《軍事基地の存在が県民の人権を侵害し、生活を圧迫し、平和を脅かし、経済の発展を阻害している……》
なんと、辺野古新基地をめぐって国と対峙する、翁長雄志知事がいま言っていることとまったく同じなのである。つまり、沖縄と国家権力との関係はこの半世紀、何ら変わってないということである。
上原安隆さんは、アパートの自室に1冊の本を遺して死んでいった。高橋和巳の評論集『孤立無援の思想』である。安隆さんの双子の兄、安房さんは、この本の題名が、自分の分身である弟、安隆の死と重なって仕方ないのだ、という。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第10回
《こんど私は、2年と7ヵ月敗戦の日本にいたわけだが、一部のアメリカ人が謳歌するように、日本の民主化は達成されたなどとは、どうしても思えない。ろくに戦争の反省もしないうちに、もうこのくらいで勘弁しろよといった顔つきで、“デモクラシー” のスカーフで頬被りしてしまった。敗戦を終戦と言い、占領を進駐と言いくるめた “ミズーリ”〔降伏文書調印〕直後の日本を、私は歯ぎしりして眺めた》
これはアメリカ海軍の情報将校として太平洋戦争に従軍、のちにハワイの捕虜収容所長や、同志社大アーモスト館館長などを務めた知日派学者、オーテス・ケーリ氏がその著書(『真珠湾収容所の捕虜たち・情報将校の見た日本軍と敗戦日本』筑摩書房)に書いた一節だ。
集団的自衛権や憲法改悪などをめぐり、いい年をした男たちや若者までもが、平然と「改憲賛成」を口にし、「米軍と一緒に戦うのは当然」などと語るのをテレビで見るたびに、僕はこのオーテス・ケーリ氏の「歯ぎしり」を思い出す。安倍政権がゴリ押しする戦争法案への日本人の危機意識は、まだまだ足りない。もちろん、とんがり帽子のあの館にいる輩たちも含めての話である。
それにしてもこの2ヵ月、オーテス・ケーリ氏ではないが「もう勘弁してくれ」と叫びたくなるほど、僕は身体を酷使した。結果、右下半身麻痺と、日夜大腿部筋肉を断続的に襲う疼痛に見舞われた。もしや、20年来の糖尿病が閉塞性動脈硬化症をもたらしたのか、と不安が募る。僕の心臓の冠動脈にはステントがなんと4個もはめ込まれていて、それが不安に拍車を掛ける。かくして、原因究明と治療のための病院通いは、5月下旬から1ヵ月余りで以下のごとしである。
整形外科には都合4回。右脚や腰椎検査などさまざまな検査を受けた。内科では胸部と頭躯幹のデジタル撮影、そして眼科、皮膚科、このほかに整体院通い5日、等々……。きょうは心電図、あすは胸部と腰から下のX線撮影、日をおいて脊柱管のMRI撮影……といったあんばいだ。脚を引きずりながら、ときに杖に頼っての病院通い。ここ2ヵ月、トシを顧みずに老体を酷使した祟(たた)りである。
いったい、そこまで我が身を痛め続けてまで、僕を夢中にさせたものは何なのか。やはり、現下の政治状況とは無縁ではない。いや、ズバリ、安倍政治との僕なりの「対決」である。
「安倍政治」との対決ーー。6月末までの1ヵ月余、僕の関わった催しを列記すると以下のようになる。
これらのイベントと並行して「辺野古チムグリ結歌」の準備会や出演者交渉、展示写真の手配、民衆談話の内容の詰めと行動計画の策定、著名人や友人知人ら50余人への賛同依頼状書きとメールの送信。加えて「沖縄戦後70年」がらみの新聞、雑誌のインタビュー3社4回……。度重なる病院通いもあって、物理的にも身体的にも文字通り限界に達し、疲れ果てた。どれもこれも時間に追われての作業である。
因みに、一連の「企み」の根っこにあるのが「月桃忌の会」。この会は首都圏在住市民らによる小さな市民グループで、僕はその一員。グループといっても顔を合わせるのはいつも5人前後。年齢も仕事もさまざまで、8年前に他界したジャーナリスト・近田洋一につながる、いわば盟友仲間だ。会は、毎年故人の命日月にあたる6月に、その志を受け継いで生きていくための平和にちなんだ催しを故人最期の地、埼玉県内で催してきた。
6月は沖縄の「戦さ月」。日米将兵、住民合わせ20万人に上る死者の大半が死んだ月だ。そのことと、近田の死は僕の「老体酷使」と無縁ではない。加えて今年は「戦後70年」の節目の年であり、安倍首相の「問題談話」なるものが予定されている年でもある。座して愚行を待つことは許されない。
そして今年、思いついたのが民衆談話運動。つまり安倍首相が出そうとしている「戦後70年談話」の先手を打って、僕ら市民の談話を出そうという「企み」である。「談話」は、日中戦争の始まった7月7日に首相官邸や中韓両国大使館等に届けたうえで、日本プレスセンター(東京・日比谷)で記者会見し発表の段取りだ。
その言い出しっぺである僕たちは、この過程で新たなメンバーを加えて「民衆談話の会」を発足させ、会を引っ張った。意義ある「企み」と思うが、小さな市民グループが担うには極めて重い課題であった。
これも、戦争法案の制定にまっしぐらな「安倍政治」に対する国民の危機感の現れであろう。「談話」に賛同する声が日ごとに高まり、さまざまな分野の人たちが賛同人に名を連ねるまでになった。
昨年の沖縄県知事選で「辺野古新基地反対」を公約に掲げて「オール沖縄」で立候補した翁長雄志氏の応援に、がん末期の身をおして駆けつけ、3万5000人の大群衆を前に「沖縄の海も山も沖縄のものだ」と叫んで1ヵ月後に帰らぬ人となった俳優の菅原文太氏の夫人文子さんや、作家の井上ひさしさんの夫人ユリさんも賛同してくれた。100歳の現役ジャーナリストむのたけじさんも真っ先に手を上げた。賛同人の数は7月上旬までに250人を超え、大阪や名古屋、広島、東京などでも「談話」や「宣言」を出す準備が進んでいる。
石川県金沢市での写真展『写真が語る沖縄 戦後70年と今』には、6日間で650人の来場者があった。金沢大サテライト・プラザで行なわれた講演の模様は小松、珠洲にも同時中継され、遠隔地の人たちも熱心に聞き入った。保守的な土地とされる石川県内でのささやかな催し、北陸の地に“熱風”が吹く。企画した石川の女性たちの努力と、彼女たちが日ごろ築いた人間ネットワークの確かさが、催しを成功させた。朝日、毎日、北陸中日など新聞各紙が繰り返し報じ、地元テレビニュースでの紹介も追い風になった。
僕は5日間、会場に張り付いた。そこで感じたのは、いまこの国で「沖縄とつながろう」とする大きな地鳴りが起きているのではないか、ということ。これは埼玉での「辺野古チムグリ結歌」のときにも抱いた実感だ。辺野古新基地建設の強行と、集団的自衛権によって露わになったこの国の「壊れた民主主義」に対する危機意識。強権的な安倍政治をはね返そうとの動きが市民一人ひとりの心の中にじわじわと芽生えているように思う。
国会議事堂前では悪天候をついて、連日多くの市民が戦争法案反対の声を上げ続けている。若い人たちも日増しに増えている。オーテス・ケーリー氏の「歯ぎしり」は70年の歳月を経てようやく止むのであろうか。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第9回
「平和とは、戦争と戦争のあいだの休息期間である」と言ったのは、誰であったか。
アジア・太平洋戦争終焉から70年を迎えて思うのは、果たして僕たちは、その「休息期間」をどれほど大事にしてきただろうーということだ。日々、戦前回帰へと暴走する安倍政権を尻目に、忸怩たる思いをしているのは僕一人ではないであろう。この国は間違いなく「戦争可能国家」になろうとしている。
統一地方選で勝利した「安倍自民党」は、勝利のほとぼりの冷めやらぬ14日、公明党との間で軍事立法(安全保障法制)に関する与党協議を再開した。集団的自衛権行使のための法律の改定や新法の立法に向けて、協議はいよいよ核心部分に入ったわけだ。憲法9条を死文化する暴挙である。
政府・自民党の思惑通りこのままコトが進むと、日本は戦後70年貫いてきた平和主義と訣別。「国際紛争を武力で解決する国」へと様変わりする。たとえ日本自体が平和であっても……。彼らが口にする「安全保障法制の整備」とはそういうことだ。いつでも、どこへでも「自衛隊」を派遣し、「敵」と砲火を交えることが可能となる。正に「戦争をする国・できる国」への大変身である。
統一地方選の投開票日の夜、テレビが次々と映し出したお決まりの当選風景。自民圧勝そのままに、知事選や県議選の自民党公認候補者らの、エンドレスのようなバンザイ、バンザイの光景を眺めながら、気味悪さがつのった。この人たちと、この人たちを当選させた人たちは「安倍自民党」が進めている「戦争可能国家」作りを〈良し〉としているのだろうか、と。
北海道など10知事選では、自民党の推す候補が全員当選(うち6県では民主党が「相乗り」)。そればかりか、当選者すべてが現職だという。この国の政治家や有権者は、いったいいつからこんなに無気力になってしまったのか。投票率に至っては知事選で47.14%、県議選に至っては45.05%(いずれも平均投票率)だ。実に、有権者の半数以上が政治にそっぽを向いているのだ。
元気な若者はいないのか。地方から安倍政治に敢然と異議を申し立てる覇気ある青年はいないのか。そういう若者を押し立てようという有権者はいないのか。残念ながらそのようなケースはマレである。〈この国のあした〉は今を生きる若者たちのものなのに。
小説『麦と兵隊』などで知られる作家・火野葦平(1907~60年)がこんな詩を遺している。自らの中国戦線の従軍体験を踏まえて書いた「兵隊」と題する詩だ。
戦場で火野の目に映った兵士の姿。火野はこの詩を1943年に上梓した詩集『青狐』で発表した。だが、当局による検閲で直ちに削除され、改めて世に出されたのは戦後のことだ。知らしむべし、よらしむべからず。国に都合の悪いことを言うことは許さない……。そんな時代がわずか70年前までこの国にはあった。
でも、もはやこれを「昔のこと」とは言ってはいられない。昨年施行された特定秘密保護法に始まる一連の軍事関連法「整備」への急テンポのうごきは、この国の戦前回帰をまちがいなく現実のものにしている。これからは、国家機密も天井知らずで増え続けるだろう。
《何が秘密?》《それは秘密》
けだし名言である。情報不足で判断の術を失った市民やメディアを束ねるのは、権力者にとっては朝メシ前で、こんな法律が独り歩きすると、きっと僕たちは政府の意のままに何処へでも誘導されてしまうだろう。特定秘密保護法は、権力者にとって武器にも勝る重要な兵器なのだ。
いま進行中の軍事関連法制定に向けた自公協議。自民党は自衛隊の海外派兵をしやすくするための法律を恒久法にしようと目論んでいる。その法律の名称は「国際平和支援法」というのだそうだ。「国際」も「平和」も「支援」も美しい字句だ。だがその中身は、血で血を洗う戦争の教本のようなものになるだろう。
「武器」を「装備」と言い換え、「輸出」を「移転」と言って国民の目を欺き、法で禁じてきた武器輸出を解禁したのは、ついこの間のこと。「国の防衛」とは関係なく自衛隊を海外に出すのなら、まさに先般安倍首相が口走ったように、「自衛だけが任務」ではなくなった「自衛隊」は「軍隊」と言うべきだし、「防衛産業」は「軍事産業」、「防衛費」は「軍事費」、「防衛省」は「国軍省」とでも改めるべきだろう。
沖縄戦では、ウチナーグチ(沖縄語=沖縄方言)でしゃべっただけでスパイとみなされ、日本兵に処刑された住民が数多くいた。軍民混在の、しかも負け戦の戦場だから、お互い猜疑心がつのる。当時の沖縄はウチナーグチが常用語。ましてや戦場という阿鼻叫喚の世界で、慣れないヤマトグチ(標準語)を使いこなせるウチナーンチュなんてマレだ。自分たちには分からない言葉で会話する住民を怖れた日本軍がとったのが、スパイ容疑による処刑許可である。
《軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語で話す者はスパイと見なし処分する》
沖縄守備軍司令部の通達にはこうある。処分とは、処刑のことだ。
戦場は不条理の世界である。道理も条理も通用しない。軍隊のみが絶対であり、たとえ女性や子どもであっても軍に邪魔なら「処分」する。それを実証したのが沖縄戦であった。
「沖縄人は皆スパイだ、殺せ」
浦添市に住むS・Oさん(取材した1999年当時 78歳)は、家族を避難させるに適したガマを探しているときに出会った日本兵に銃を向けられた。戦前、近衛師団の一員として皇居の警護経験を持つOさんがそのことを話すと、相手はピストルの銃口を逸らした。だが、その直後、近くにいた若い沖縄人の男がいとも簡単に撃ち殺された。理由は「スパイ容疑」。日本兵によるこうした住民殺しは沖縄では珍しいことではない。
戦争は人間を鬼にする。その戦場に真っ先に送り込まれるのは20代になったばかりの若者たちだ。戦争と戦争のあいだの休息時間。戦争へ突き進むのも、その道を止めるのも休息時間の使い方による。(次回に続く)
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第8回
まずは、この写真をとくとご覧いただきたい。空から見る辺野古崎一帯の海岸線は、息をのむほどに美しい。
本州から沖縄の那覇空港を目指す旅客機は、島の最北端・辺戸岬を経て本部(もとぶ)半島上空に差しかかると、右と左に進路を分かつ。翼を左に振って東海岸の方向に進路をとるのは、北風の吹く季節。大きな機体が「やんばるの森」上空を横切り、太平洋上に差しかかる。そのとき、突如視界に飛び込んでくるのがこの辺野古崎だ。
実は、沖縄の海岸線の風景は、1972年の日本「復帰」後、一変した。本土同様、どの浜も護岸で固められ、沖合にはグロテスクなコンクリートの波消しブロックがずらりと並らぶ。沖のリーフ(サンゴ礁)が大波を受け止めてくれるので、ここまですることはないのに。
そんな訳だから、こんな手付かずの辺野古の浜は、何としても残したい。陸地こそコンクリートの兵舎などが建ち並ぶアメリカ海兵隊のキャンプ・シュワブになって久しいが、海辺は健全だ。今ならまだ間に合う。この岬の建物が取り払らわれ、一面、緑がよみがえったらどんなに素晴らしいことだろう。
11月16日の沖縄県知事選。「辺野古新基地」の是非をめぐり、事実上の県民投票となったこの選挙で「建設阻止」を公約に掲げた候補が、10万票もの大差で政府・自民党の推す現職知事を敗北に追い込んだ。その意味は大きい。
県知事選の結果を、僕は以下のように予想していた。
つまり、ダブルスコアを期待した。県民をあざむき辺野古の埋め立て申請を許可した仲井真知事は、それぐらいの罰は受けて当然と思うからだ。
まあ、欲を言ってもきりがない。それよりも、これからが問題だ。ヤマトの厚く冷たい壁をどうやって打ち破っていくのか。いくら「オール沖縄」と言っても沖縄だけでは太刀打ちできないし、なによりも基地問題は日本国民全体の問題だ。
国と国民は今度こそ沖縄の叫びを真正面から受け止めてほしい。問われているのは、長年にわたり広大な基地を押し付け続けているヤマトそのものなのだ。
ところで、知事選に先だつ11月11日、東京・日比谷公園で「集団的自衛権」と「辺野古建設」に反対する抗議文(安倍首相と衆参両院議長宛て)を遺し、一人の男性が焼身自殺した。新聞は多くが雑報(ベタ記事)扱いだった。マスメディアの通り一遍の、無機質な報道ぶりが気になった。
6月に新宿駅南口前でスーツ姿の男性が焼身自殺を図ったときもそうだった。自分の身体に火を放ってまで、時の政権に異議申し立てをしているのに、メディアはほぼ無視した。
警察の対応を見ていると、富村順一さんの「東京タワー事件」(1970年7月)を思い出す。東京タワーの展望台でアメリカ人を人質に、「日本人よ、沖縄のことに口を出すな」「アメリカは沖縄から出て行け」などと叫んだ事件だ。あのとき警察は、富村さんを「精神異常者」扱いにして、マスメディアの眼を塞いだ。
こんどの日比谷公園での焼身自殺。警察は「活動家」と垂れ流し、「一般国民とはかけ離れた人物」との印象を刷り込もうとしているかに見える。きっと、官邸が火消しに走ったのだろう。このような「政治的な死」は独自取材を重ね、きちんと報じてほしい。
いまのマスメディアは権力におもんぱかるばかりで、民衆の立ち位置から遠く離れてしまっているかに見える。いや、「民衆の一員」との自覚すらないのかもしれない。早く立ち直ってほしい。
さて、今度は「衆議院解散」だと。屁理屈や「大義名分」を持ち出して、解散を正当化する安倍首相の立ち居振る舞いから見えてくるのは、「政権の延命」、ただそれのみ。どこまで姑息で、あざとい人物なんだろう。
ならば、この選挙を「原発再稼働 秘密保護法 集団的自衛権にNO!」を突き付ける、降って湧いたチャンスととらえ、国民がこぞって投票所へ足を運び、「反自公」の一票を投じることだ。いくら日本人が「エコノミックアニマル」だからといって、首相の方便=消費税論議に乗せられ、「暴走政権」の延命に手を貸すような愚は、なんとしても避けたいものだ。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第7回
思えば、犯人たちにとって何とおいしい〈お客さん〉だったことか。
手には世界に名だたる日本製カメラ(F28~105ミリズームレンズ付きペンタックスMZ-3)、肩からはソニーの最新型8ミリカメラ・ハンディカム。そしてズボンのポケットに多額の現ナマ(100ドル紙幣10数枚と何枚かの1万円札)入り財布をしのばせたニッポン人が、自分たちの領域内に入ってきたのだから……。
今からちょうど20年前の1994年10月の昼下り。その名も〈天国にいちばん近い谷〉の美名を冠した南米・チリの第2の首都・バルパライソでのこと。
身ぐるみはがされるとは、まさにこういうことを言うのだろう。2人組の賊に突如背後から襲われた。何が何やら分からぬまま、カメラだけは絶対に奪われまいと、無我夢中で抵抗した。だが、ものの1~2分後には一緒に歩いていた娘共々、まさにすっぴんぴん。残ったのはズボンのポケットに残された小銭だけであった。
中南米では、街の背後に連なる丘陵地帯は貧しい人たちの住む所。でも、立錐(りっすい)の余地なく丘一面に建ち並ぶ家々は、どれもこれも赤、青、黄、そしてピンクに白にオレンジ色と、目もくらむほど美しい。その「天国」のようなカラフルな景観に誘われて、僕らはそのスラム街に足を踏み入れた。そして頂上まであと間もなくの所で、突然の羽交い締め。一瞬のうちに石畳の路上に引き倒され、大きな靴で首根っこを押さえ付けられた。
仰ぎ見ると、アメフトの選手のような大男が、長い手を伸ばして僕が抱えるカメラを引きはがしにかかる。
NO! NO!……NO~ッ!
ペンタックスが、8ミリが、そしてズボンのベルトに固定した皮のポーチ、フィルムケースなどが次々と奪われ、最後はポケットの財布に手が掛かる。力任せに犯行に及ぶ眉の濃い面長の男。どうやら賊は3人組らしく、〈抑え付ける〉〈奪う〉〈運ぶ〉の連携プレーが手際良い。
旅の目的地は、巨石像・モアイの島、イースター島。テレビドキュメンタリーのロケハンの仕事でブラジルにいた僕と、アジアを起点にヨーロッパを経て目的地へ向かう娘とがサンパウロで落ち会い、チリのサンティアゴから空路イースター島に入る段取りだった。幼い頃からモアイ像の魅力に憑(つ)かれていた娘。東京のテレビ局と「イースター島リポート」の契約をしていた僕……。予期せぬ災難に出鼻をくじかれた。
「あなた方は、いま生きていること自体が奇跡だ。あそこでちょっとでも抵抗した者はみんなお陀仏だ」
盗難証明書をもらおうと訪ねた警察署で、事情聴取に応じた警察官はこう語りながら、スーツの内側に潜(ひそ)ませた護身用の短刀をちらっと僕らに見せ、「ほら、外を見てみろ。ヤツもあの町の男。きのう人を殺した」。言われて通りを見ると、腰縄を引かれた1人の男が警察の護送車に乗せられようとしていた。
盗難証明書を出してもらうのは大変だった。
まず、スペイン語が公用語のチリでは英語はほとんど通じない。街をパトロールする警察官も、警察署の窓口もスペイン語オンリー。たまたま街角で出会った英語が堪能なキャリア・ウーマンを介して、やっとのことで目的を伝えても「そんな証明書は出したことがない」と素っ気ない。
「それよりも、来週月曜日には街の広場に市が立つから、そこに行って盗られたカメラを探すがよい。見つけたらオレが取り返してやる」と言い出す始末。あげ句の果ては、壁一面に名刺大の顔写真が貼られた広い部屋に僕らを引き入れ、「この写真の中に犯人に似た男はいないか、探せ」という。まどろこしいこと、この上ない。
貼り出された写真は300枚はあっただろうか。主犯格の男の顔は鮮明に目に焼き付いてはいたが、一度にこれほどたくさんの写真を見せられると、どれもこれも同じ顔に見えてきて、とてもじゃないが判らない。
結局、証明書を手にしたのは〈イースター島への旅〉をはさんだ1週間後。それも再度〈地獄の街〉まで出向き、新たに検察庁での事情聴取を経てのことだった。
「あなたは犯人を憎んでいますか!?」
タイプライターを叩きながら僕にこうたずねたのは、ミロのビーナス像にも似た美人の女性検事だった。僕は「罪は憎んでますが、彼らを憎んではいません」と、どこかで聞いたようなきれいごとを返した。己れに好印象を持たれたいのと、相手がホスト国の女性ゆえのリップサービス。それもこれも、何としても盗難証明書が欲しいからであったが……。
そして〈もう1人の美人〉の話。
スペイン語がまったく解らず、街の中で立ち往生している僕らの世話をみてくれたキャリアウーマン。彼女は、僕らが強盗被害者と知ると、勤務先の仕事を放り出して、警察や検察庁での通訳や交渉ごとのすべてを担ってくれた。もちろん無償で、である。
そればかりか、帰国翌年に起きた阪神・淡路大震災のときは、わざわざ地球の裏側から電話をかけてきて僕らの無事を確認し、見舞いの言葉までかけてくれるのだった。思えば、イースター島に立ち並ぶあの巨石像・モアイのような優しさと気高さを合わせ持った女性であった。
ひとつ間違えば命を落としたかもしれない〈バルパライソ〉が、僕らにとって「天国」であろうはずはないが、こうした心優しい人とめぐり会うと、やっぱりあの街は「天国」だったのだと、いまでは懐かしささえ覚えるのである。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第6回
僕が初めて手にしたカメラは「テンゴール(Tengor)54」という名の、ドイツ・カールツアイス社製の小さなボックスカメラであった。フィルムは6×4.5センチ。シャッター速度は25分の1(単速)。絞りはF11とF22。焦点距離は遠近の2段階のみ。ファインダーはといえば、ボディー上部のフレームを引き出し、後方の折りたたみ式のぞき窓を通して被写体を見定める……。まあ今にして思えば、おもちゃのようなシロモノである。
でも、さすがカールツアイス。これがなかなかの優れもので、まだ中学生の僕の好奇心を存分に満たしてくれた。従兄がくれた中古品だったが、のちにこれが僕の「写真を生業とする人生への第一歩」になろうとは、思いもよらぬことだった。
〈大人になったら新聞社のカメラマン〉と、心に定めたのは高校生になった頃。廉価で売り出されたリコーフレックスの新型機が、“二眼レフブーム” に拍車をかけ、1953年2月のⅣ型機発売のときは、町の写真店やデパートのカメラ売り場に長蛇の列ができた。当時最低でも3~4万円はした二眼レフカメラが、わずか8300円で入手できるとあって、品切れが続出。販売台数100万台のミリオンセラーとなった。父に連れられて東京・日本橋のデパートまで行き、ようやく買い求めたときの、ずしりと重い感触を僕はいまでも忘れない。
しかし、いくら8300円とはいえ、当時の大卒初任給の約2倍強。誰にでも買える価格ではなかった。僕が入手できたのも、両親がやっていた私立幼稚園の遠足や運動会、クリスマス会などの年中行事の撮影とその頒布(はんぷ)を一手に引き受け、身分不相応の収益を得ていたからだ。フィルム現像から毎回数百枚ものプリント仕上げまでの全てを自分でやるので、いい収入になった。夏休みや冬休みに裏日本の農漁村や関西の古寺などを訪ね歩き、好きな写真に没頭できたのも、そうした趣味と実益の一致ゆえのことであった。
リコーフレックスの次に買ったのが、千代田光学のミノルタフレックスⅡB型。シャープな画像とフレアーの美しいロッコールレンズ。シャッタースピードやピント合わせなどの操作性は抜群で「日本版・ローライフレックス」と呼ばれたほどだ。価格はリコー最新型の5倍もした。
このカメラには忘れられない思い出がある。そのひとつは、『アサヒグラフ』に掲載された「貝の町・浦安」(Gallery参照)の撮影で威力を発揮したこと。この仕事は、社会性のあるテーマを組み写真で表現した僕の初めての仕事だったので、掲載誌を手にしたときの感慨はひときわだった。
そしてもう一つは、あの著名な小説家・武者小路実篤(1885~1976年)のポートレートを撮ったこと。氏は、小説「友情」や「愛と死」など、白樺派を代表する日本文学界の巨匠。チャンスは僕の通っていた学校内で訪れた。講演のため来校した武者小路氏を、学内の貴賓室で撮影した。この写真がそのときの1枚だ。
窓辺の椅子に腰掛け、サンドイッチを口にしながら学長が挨拶にみえるのを待つ氏の前に現れたのは、二眼レフカメラを首から下げた “カメラ小僧” の高校2年生の僕。
「写真を撮らせて下さい」
若僧の不躾(ぶしつけ)なお願いに、武者小路氏は手にしたサンドイッチを持ったまま、じっとレンズを見つめ続け、僕の頼みに応じた。静かな室内にミノルタフレックスの軽快なシャッター音が7回響いた。
のちに新聞社に職を得、何年か「カメ記者」をしたので、著名人にカメラを向ける機会は少なからずあったが、面と向かっての肖像写真は後にも先にも武者小路氏だけだった。カメラを持つと「怖れ知らず」の僕であった。
それからしばらくして、僕の前からそのミノルタフレックスが姿を消した。父母がやっていた私立幼稚園の経営がおもわしくなく、家計のやり繰りにも困った母が質草に「活用」したのだ。済まなそうな面持ちで僕の前に現れた母は「ほんの数日だけ、貸してね……」と言って、僕からカメラを受け取ると、近くの質屋に持ち込んだ。
幼稚園の園児数は年によって増減があり、在園生が少ない年は、僕ら子どもたちの学費の納入が滞ることもあった。5人きょうだい全てを私学に通わせていたのだから無理もない。家の中からは母が大切にしていた、いっちょうらいの晴れ着が真っ先に姿を消していた。親の苦労を思うと母の頼みに頸(くび)を横に振るなどとてもできることではなかった。
父と結婚する前の一時期、上海に住んでいた母は、内山書店の店主・内山完造らが催す「読書会」に参加、中国の思想家・魯迅とも親交のある社会派の女性だった。
〈当局から追われる魯迅を皆と知恵を絞って匿ったのよ〉
そんな話しを聞いたこともある。
文化人にも知己が多く、戦火を免れた東京・世田谷の我が家では、空襲でアトリエや稽古場を失った画家や劇団の人たちに幼稚園のホールを開放、自由に使わせたりもした。週末の幼稚園はいつも創作活動に励む著名な芸術家であふれていた。
僕にボックスカメラ「テンゴール」をくれた従兄の名は伊藤順。のちに鉱物学者としてアメリカのNASA(航空宇宙局)に勤務し、人類が初めて月から持ち帰った石の分析などに従事していたが、若くしてガンを患い、志半ばで早世した。その父、伊藤貞市(僕の母・貞子の兄)は、レコードのダイヤモンド針を発明した鉱物学者。東大名誉教授を最後に一線を退いた。
僕の家庭では毎年正月には、きょうだい5人だけで東京・成城に邸宅を構える伊藤家に新年の挨拶に行くのが習わいであった。親がくれるよりもずっと多額のお年玉がもらえるのが何よりの楽しみだった。「成城の叔父さん」は、ダイヤモンド針の特許料で悠々自適の生活をしていた。
質蔵に消えたカメラは、とうとう戻ってくることはなかったが、僕が母から得たものは、あのカメラよりもずっと重く、大きなものであった。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第5回
少年のころの僕の夢はカメラマンになること。それも、報道カメラマンになりたいと思っていた。叔父にもらったドイツ製のボックスカメラが映し出すモノクロの写真の魅力にとりつかれ、高名な画家に習っていた油絵もやめて写真に没頭した。まだ中学生のころである。
高校時代は、夏休みや冬休みになると秋田や新潟など日本海沿岸の農漁村や、飛騨の高山などを歩き、はやりのリアリズム写真に入れ込んだ。日本でもテレビ放送はすでに始まっていたが、芸術の場でも報道の場でも写真の果たす役割の大きな時代だった。国内では木村伊兵衛や土門拳、濱谷浩、海外ではブレッソンやドアノー、そしてキャパらそうそうたる写真家たちが個性を競っていた。
とはいえ、僕の写真はどだい趣味の世界。確たるテーマを定めるわけでもなく、ただ絵になるものを探し求めてシャッターを押していた。発表の場は主に『カメラ毎日』などのカメラ雑誌の月例コンテスト。火災現場などニュース写真を撮ったときは『毎日新聞』や『サン写真新聞』。子ども向けの話題は『毎日小学生新聞』や『毎日中学生新聞』などに持ち込み、その原稿料を撮影旅行の経費などにあてた。
今は東京ディズニーランドや首都圏のベッドタウンと化した千葉県・浦安市。1953年から54年にかけてはこの町に足しげく通った。当時の浦安は山本周五郎の小説「青べか物語」そのままの、貝や海苔で生計を立てるひなびた漁師町で、このとき撮った写真は見開き2ページの組写真となって『アサヒグラフ』の誌面を飾った。原稿料は2万円。当時のサラリーマンの初任給の3倍近い高額に感激したが、ギャラの高さは「フォトジャーナリズム」の隆盛ぶりを物語る証左と言って良いだろう。
そんな僕の日常を一変させたのが、高卒時の〈オキナワ〉との出会いだった。沖縄出身の学友に導かれて訪ねた米軍政下の沖縄。1956年春と翌年夏の再訪時に撮った写真は、フォトプレスのギャラリーサイト「沖縄 こころの軌跡 1957~2000」などで一部ご覧いただいている通りだ。
異民族支配に苦しむ沖縄の人々は「平和憲法下の日本」に帰ることを願い、「基地からの脱却」を訴えていた。その〈沖縄〉を日本に知らせたくて新聞記者になり、沖縄に移住したのは1959年初め。僕の仕事は「カメ・記者」、つまり、写真も撮れる記者。今のようにシャッターを押しさえすれば、誰でも写真が撮れるわけではなく、ピントも絞りもシャッタースピードも自分で決めなければ完全な画像は得られない時代。「写真の撮れる記者」は重宝がられた。
新聞社としては、2人出さねばならないところ、「カメ・記者」の僕なら1人で間に合う。おかげでジャーナリストとして得難いチャンスをたくさん与えられたが、それでも満足できず、在京テレビ局の通信員を請け負い、沖縄暮らしの15年間のほとんどを、ニュース映像の撮影やドキュメンタリー制作に明け暮れた。
思えばなんとも欲張りな自分である。転勤で東京に戻った後は、本業の社会部記者のかたわらノンフィクションやルポルタージュにも首を突っ込み、寸暇を惜しんで離島のルポや人物評伝などの執筆に精魂を傾けた。テーマはすべて〈オキナワ〉。あの手この手を総動員して「沖縄の不条理」を世に問い続けた。それがやがて人の心をとらえ、作品は時空を超えて1人歩きを始めた。
その一番手は、石垣島での戦時捕虜の虐殺事件を描いた『最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇』(講談社刊)。劇団文化座が斬新な手法で舞台化(2001年1月)し、全国各地で公演した。文化座は、深刻な過疎化にあらがう八重山諸島・鳩間島を描いた僕のノンフィクション第1作『子乞い 沖縄孤島の歳月』(マルジュ社、後に凱風社刊)にも興味を寄せ、「月の真昼間(まぴろーま)」という芝居を創り上げた(2008年)。
『子乞い』は、尾瀬あきらの手により長編漫画にもなった(『ビッグコミックオリジナル』連載の「光の島」全65話、2001年~2004年)。続いてNHK・FMで2003年に連続ラジオドラマ「光の島」として10回。さらに日本テレビが2005年にドラマ「瑠璃の島」(全6話+2007年にスペシャル編1話)に仕立てて放送した。演劇、放送、漫画……、このドラマチックなメデイア横断型の森口作品の1人歩きは、〈オキナワ〉への理解者を増やしたい僕には、うれしいことであった。
沖縄が異民族支配を脱してこの5月で42年になる。
《日本に復帰すれば、基地のない、人が人として認められる世の中になる……》
そんな思いとは裏腹に、日本人の多くは今なお在日米軍基地のほとんどを小さな沖縄島に押し付けて我関せずだ。沖縄は支配者がアメリカから日本に変わっただけで、「基地の島」であり続けている。
そればかりか、国はこの4月から沖縄諸島最西端の与那国島で「自衛隊」駐屯地の設営に乗り出した。来年にも150人の陸自隊員を送り込むという。「中国の尖閣進出への備えが目的」と国は説明するが、〈チカラにはチカラ〉の行き着く先を考え無関心ではいられない。
写真は時代を記録する歴史の証言者である。僕が〈沖縄〉と向き合い始めてすでに半世紀。だが、ヤマトの国と、その民による沖縄差別・少数者差別は終わることなく続いている。
はたして、写真は時代を変える役割を発揮できるのか。突き付けられた問いは決して軽くはないが、「たかが1枚」の写真であったとしても、僕は写真のチカラを信じ、希望を託したい。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第4回
この世は無常だ。歳月の流れが人の命をも次々と押し流して行く。いつもと同じようにあっというまに駆けぬけた2013年。あの年もまた、友人や先達の幾人かが彼岸へ、彼岸へと旅立った。いや、今年になってからでさえ、すでにひとり…。
僕の手元に、大切な方々からいただいた幾葉ものはがきを収めた数冊の書簡ケースがある。年賀状や暑中見舞い、季節の便りなどがぎっしり…。生者と死者が混在するはがきたちを繰(く)る指先がふと止まるのは、物故した人たちの心の琴線に触れたときだ。伊江島の阿波根昌鴻さん(1901~2002年)、随筆家の岡部伊都子さん(1923~2008年)、ジャーナリストの池宮城秀意さん(1907~1989年)…。
銃砲弾飛び交う中、ひめゆり学徒たちのいまわに立ち会った元沖縄師範学校教員の仲宗根政善さん(1907~1995年)からの便りは、どれも平和への強い思いがみなぎっている。人間国宝の陶芸家・金城次郎さん(1912~2004年)と、同じく壺屋の陶工・新垣栄三郎さん(1921~1984年)は、どちらも「吾れこの道を行く」然としてけれん味がない。
その壺屋の陶工らをこよなく愛した版画家の棟方志功さん(1903~1975年)のはがきは、生まれ故郷・青森の名峰、岩木山を版画にした年賀状。1961年1月19日の投函。
棟方さんとは、1957年、僕がまだ新聞記者駆け出しのころにお会いした。たしか、東京・杉並辺りに住んでおられたように思う。求めに応じた氏は、作業台の上に和紙を広げ筆を走らせた。那覇の陶工の町・壺屋の情景が見る間に描きだされていく。度の強い丸縁の眼鏡をかけたお顔を紙にすりつけるようにして。
《沖縄はいい。沖縄は本物だ。活きている》
子どものようにはしゃぎながら筆を走らせる。かたわらで奥さんが笑顔で見つめている。描きあげたのは壺屋で働く女たち。芭蕉や月桃の葉擦れの音の聞こえてきそうな、土の薫りの香しい墨彩画だ。最後に真ん中近くに朱印を押すと
《この絵はあんたに上げる。あんたも沖縄を愛してるから》
思いもよらぬお言葉に、小踊りするほどうれしかった。
評論家の鈴木均さん(1922~1998年)、映画監督で演出家の岡本愛彦さん(1925~2004年)は池宮城さんと同じく僕に「ジャーナリスト道」を教えてくれた大先輩。鈴木さんからは学徒出陣の悲劇について。岡本さんからは大戦末期の日本軍の玉砕の思想について多くを学んだ。
写真家の東松照明さん(1930~2012年)は「僕の身体の中は針金だらけ」と言いながらも、82歳で亡くなるまで視力の衰えや病をおして〈沖縄〉を撮り続けた。「絵画とは違い写真は作者が死んだらゴミ同然。アーカイブの重要性は計り知れない」。会うたびにそう言っていた。
俳優の緒形拳さん(1937~2008年)は連続テレビドラマ『瑠璃の島』(原作、森口豁著『子乞い 沖縄 孤島の歳月』)の現地ロケで親交を深めた。がんを患っていることを隠し通しての熱演だった。仕事が違ううえ、同い年の気安さも手伝って互いに遠慮することもなく、のどかな小島で至福の時を過ごせたのがせめてもの幸せだ。
画家の戸井昌造さん(1923~2000年)はご自身の最期を見事に演出した。都心の駅前ビルの大ホールを借り切って、自ら生前葬をとり行い、声高らかにロシア民謡を歌って友人、知人ら数百人の参列者を喜ばせると、誰に知らせるでもなく黄泉(よみ)の国へ旅立って行った。うらやましくも見事な引き際である。
《よいおたよりを頂き、ありがとうございました。沖縄行きの初志、ご結婚の初志、フリーランサーになった時の初志を大切に。よきお仕事、幸せな日日を進められますよう。ゆるり清談いたしたいものです。》(1963年11月17日)
写真家、濱谷浩さん(1915~1999年)とのお付き合いは1963年から80年ごろまで。創刊間もない平凡社の月刊誌『太陽』の沖縄特集の取材で、63年春に沖縄を訪れた時がご縁の始まりだ。久米島では〈農〉を大事に生きる人々に、久高島ではノロ(神司)を中心とした神聖な女たちの息遣いに誠実に向き合う濱谷さんの姿勢に心を打たれた。
久高島からの帰途、海が荒れて全身濡れねずみとなり、那覇のホテルに帰り着くや、平凡社の編集者共々代わる代わるシャワーを浴びた。その際着替えのパンツを借りたことが懐かしい。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第3回
かつて全国の子どもたちをテレビの前にクギづけにした特撮テレビドラマ「ウルトラマン」シリーズのシナリオライター、金城哲夫の生地、沖縄・南風原町(はえばるちょう)を訪ねた。今年2014年は彼の生誕75年に当たる。地元南風原町が町を挙げて郷土が生んだ金城の生誕記念祭を催すことになった。そのゲスト・スピーカーとして主催者の招きを受けた。
《知ってた? ウルトラマンを創った 南風原人 がいた事を!》
那覇市の隣町、南風原町内のあちこちで、こんなキャッチコピーの踊るポスターや横断幕が2月の風に揺れていた。
沖縄が米軍支配下にあった1954年、さとうきび畑の広がる村を飛び出して単身上京、東京の高校、大学を経て円谷プロに入るやシナリオライターとして頭角をあらわした金城哲夫。彼の業績と明朗闊達、かつ大らかな人柄がいまや 沖縄の誇りとなっているのだ。
5日間の会期中、会場の町立公民館や文化センターでは、金城が手がけた「ウルトラマン」の上映や、「郷土の英雄」の生い立ちと仕事をあとづける写真や資料、そして、幼い子どもたちの描いた怪獣絵画展、さらには地元中学校吹奏楽部によるウルトラマンのテーマ曲演奏会まで、盛りだくさんの催し。村は連日、子どもたちの歓声にわいた。
その金城哲夫と僕の縁は、今をさかのぼること59年、共に高校生だった1955年に始まった。彼17歳、僕18歳の鮮烈な出会いだった。
「ぼくの故郷・オキナワを一緒に見に行きませんか? 」
金城の提案で、学友17人からなる「親善使節団」がつくられ、翌年春休みの2週間、沖縄を旅した。まだパスポートがいる時代。「日本に復帰したい」と口にしただけで「アカ」のレッテルを貼られ、渡航が阻止される米軍支配下でのことだ。
戦後初めて迎えた僕ら「祖国の友」を前に、現地の高校生は「アカ」の烙印を押されることを覚悟のうえで、涙をぬぐいながら日本への想いを語った。この旅以降、東京生まれで東京育ちの僕は、寝食を忘れて〈オキナワモンダイ〉に没頭。金城らと共に沖縄の実情を知らせるパンフレットを作って全国の高校生徒会に送ったり、本を送る運動や、オキナワへの理解を深めることを願って文通啓発などに情熱を傾けた。
翌1957年夏に再度沖縄を訪問、まる1ヵ月間金城と2人で町や村を歩き、米軍支配下の現実をフィルムに収めた。僕の写真で撮影年月日が「1957」とある写真はすべてこのとき撮影したものだ。大学を中退して沖縄に移住したのはその翌々年。以降、新聞記者や在京テレビ局の「特派員」として沖縄報道に生涯をかけることになる。つまり、金城哲夫は僕の人生を変えた男なのだ。
冒頭「町を挙げて」と書いたのは、この催し、主催者こそ南風原町観光協会だが、後援団体には南風原町や町教育委員会、さらには沖縄県まで名を連ね、共催団体は「金城哲夫氏とウルトラマンのまちづくり住民会議」を筆頭に、町商工会、PTA連絡協議会、学童保育連絡協議会等々、と続く。まさに「町ぐるみ」である。
いったい今なぜ「金城哲夫」なのか。
もちろん、子どもたちに夢を! 希望を! そして、自信を!……。そう願ってのことだろう。いまの世の中、あまりに縮み思考で、夢がない。若者の都会志向も町の発展にブレーキをかける。せめて子どもたちにはでっかい夢と揺るぎない自信を持たせたい。大人たちの思いは切実だ。
《金城は決して怪獣を殺さなかった。そっと帰してやる。そういう男だった》
壇上からこう語ったのは金城作品の特撮技術(光学合成)を担当した中野稔さん、74歳。毎日のようにどこかで殺人事件が起きる今の日本。むろん沖縄とて例外ではなく、社会はすさみ切っている。
37歳という若さで「M78星雲の彼方」へと飛び去ったウルトラ級の奇才、金城哲夫のような人物こそ、世直しの先兵として沖縄がいま必要としている人材なのだ。そうでなくても、この島には殺戮兵器があふれかえっているのだ。
(※)金城哲夫資料館
生前の金城の書斎の面影を残した資料館。南風原町津嘉山1384の松風苑(金城哲夫の実家)の敷地内にある。
金城が手がけたウルトラマンシリーズの脚本や、帰郷後取り組んだ沖縄芝居の台本、制作ノートなど貴重な資料が展示されている。
年中無休だが参観希望者は事前に電話(098-889-3471)を。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第2回
朝鮮の抗日独立運動家・安重根(アン・ジュングン)を処刑した絞首台を初めて目の当たりにしたときの、名伏し難い衝撃がいまも頭から離れない。
日露戦争(1904~1905年)最後の激戦地として知られる中国・旅順の街外れ。築100年を超す古い刑務所「旅順日俄監獄」内でのこと。中国・朝鮮を支配していた日本と旧ロシアが、思想犯などに拷問や処刑を繰り返した旧刑務所だ。
高い天井から垂れ下がるロープの真下には深さ1メートルほどの古びた木樽が置かれていた。高い塀ぎわにひっそりと建つ絞首舎の中。僕はとっさに肩に下げたカメラに手をやったが、シャッターは切れなかった。
館内はすべて撮影禁止で、どの部屋にも監視員が配置されている。しかし、絞首台のあるこの一郭の監視人は、小春日和に誘われでもしたのか持ち場を離れ、窓の外で日向ぼっこ中だった。
だから撮れば撮れた。でもどうしても撮れなかった。安重根の無念を思うと、とてもその気にはなれなかったし、何よりも現実の重さに圧倒された。1992年秋、旅順がまだ未開放地区だったときのことである。
初代韓国統監・伊藤博文が、黒竜江省ハルビン駅で胸に3発の銃弾を受け死亡したのは1909年10月26日。のちに訪ねたそのハルビン駅のプラットホームには「現場」を示す小さなメモリアル・プレートがはめ込まれていた。
安重根は〈義士〉なのか〈犯罪者〉なのか。事件から1世紀もの歳月を経たいまなお、韓・中両国と日本の歴史認識は正面衝突したままだ。
「朝鮮の独立と東洋の平和を守るために献身した偉人」とは韓国政府の主張だが、中国政府も「中国人民から尊敬されている抗日義士」とその所業をたたえる。36年もの長いあいだ日本の支配を受けつづけた朝鮮と、〈天皇の軍隊〉が中国全土で展開した、いわゆる「三光作戦」(焼き尽くす、殺し尽くす、奪い尽くす作戦)で膨大な犠牲者を出した中国。どちらにとっても安の行動は評価してもしすぎることはないのであろう。
あのとき撮りたくても撮れなかった安重根最期の地。その貴重な写真を撮るチャンスは10年後の9月にめぐってきた。中国・台湾の現代史研究者で沖縄大学教員、又吉盛清氏が企画した「旧満州国 学外学習の旅」に同道、再び旅順を訪れる機会をえたのだ。この年は「日中国交回復30年」の記念すべき年で、旅には30代の若者から70代の旧満州引き揚げ者まで29人が参加、上海を振り出しに大連、旅順、瀋陽、撫順、長春、ハルビン、チチハルと、旧満州を南から北へほぼ縦断した。
そして再訪した旧旅順監獄。門の前では又吉氏と懇意の郭富純館長が、僕ら一行を茶菓子を用意して待ち構えていた。
〈歴史の真実を正しく後世に伝えていくことは私たちの責務です。とりわけ日本の人たちには歴史上の事実を正しく認識してほしいのです〉
郭館長は、館内撮影の許可を求めた僕にこのような言葉で応じた。海外の参観者への撮影許可は初めてだという。
ここに紹介したのはそのとき撮影した写真の一部だが、外光のほとんど差し込まない暗い獄の中に次々と浮かび上がる「圧政の残像」を前に、僕は祈るような気持ちでシャッターを押し続けた。「安、あなたの無念な思いを伝えます」と。
伊藤博文暗殺から105年になる2014年1月19日、ハルビン市政府はハルビン駅構内に「安重根義士記念館」を開館させた。韓国政府の「現場に記念碑を」との申し入れに、中国側は「記念館開設」という倍返しで応じた。なぜなのか――。
日本の右傾化、とりわけ戦前回帰を強める安倍政権の存在があるとみるのが自然だろう。韓・中両国は日本人以上に日本の行方を心配し、スクラムを組んでサインを送っているかに見える。
だって安倍政権がやっていることは余りにひどすぎるではないか。「積極的平和主義」の名のもと、同盟国と一体となって「他国の戦争」に参戦する道へと突き進もうとする現下の動きは、あの戦争で被害を受けたアジア諸国民には無関心ではいられまい。ハルビン駅に開館した安重根記念館はまさに「安倍イズム」の反転した映し絵なのだ。
ジャーナリスト・森口豁の虫の眼 鳥の眼 第1回
尖閣諸島の沖合いで船を寄せあい、互いに身を乗り出して身振り手振りで言葉を交わし、先方が被っていた古びた笠を譲ってもらったことがある。相手の船は台湾漁船。僕が乗っていたのは沖縄水産高校の練習船「図南丸」。笠の代金は25セントだった。揺れる海上で商談成立を祝して台湾漁民と笑顔で握手をした。沖縄がまだアメリカの施政権下にあった1963年5月のことである。
漁船のデッキ上には、直径1メートルほどの底の浅い竹かごが幾重にも重ねられていて、その中には海鳥の卵がびっしり並んでいた。彼らは海鳥の産卵期を当て込んで台湾からやって来た「密漁者」だったのだ。周辺には同様の漁船が10隻近く。島に眼をやると幾人もの男たちが海鳥の巣から卵をくすねては手にしたかごの中に入れていた。
図南丸はアホウドリの生息調査などのため琉球大学がチャーターした船で、僕は地元紙の記者として一行に随行していた。遠来の「密漁者」たちとの思わぬ遭遇は、尖閣諸島・南小島の岩場で一夜を明かした翌日のことであった。
5月の沖縄は鳥類たちが命を育む若夏の季節だ。日中の最高気温は30度に迫る。そんなハードな無人島調査行に台湾漁民愛用のタケノコの皮でつくられた笠は不可欠で、全行程3泊4日の僕の船旅では威力を発揮した。
沖縄の行政権が日本に返されるまでの27年間、つまり沖縄が「アメリカ世」と呼ばれていた時代、尖閣諸島海域は日本、台湾、そして沖縄の漁民たちが自由自在に立ち入って操業できる「豊穣の海」であり、どこからのおとがめもなくだれもが上陸できる島々であった。
「海が荒れたら船を寄せ、島にあがって天候の回復を待てばよい。海んちゅに国境なんかない。みんなで自由に使えばいいんだよ。わたしらもずうっとそうしてきた」
宮古島や石垣島の漁民はよくこう言った。自然を相手に生きる彼らの健康な精神に僕はたいそう感動したものだ。荒れた海に船を漕ぎ出せば人間なんてちっぽけなもの。国境など気にしていては生きていけないのだから……。
その尖閣諸島にいま「共生の海」としての面影はない。国家がしゃしゃり出てからというもの、尖閣周辺では連日のように中国と日本の官権当局の警備挺が鼻を付き合わせてせめぎあい、上空では軍用機による一触即発の危険な主権争いがつづく。民衆同士にはいささかのいさかいもないのに、国家が市民の手の届かないところで海と空に線引きし、無用の対立と緊張を高めあっているのだ。そればかりか両国は「領土・領空」を大義名分に着々と軍備強化を進め、自国民のナショナリズムをあおり立てるのに熱心だ。
「尖閣を買う」などと言って何の関係もない東京都民をたきつけ、日中間に対立を引き起こしてしてやったりとほくそ笑んだ傲慢不遜な政治屋がいた。そんな人間を首長にすえ、あげくの果ては国会にまて送り込んで恥じない有権者も有権者だが、迷惑を被っているのはあの海域を生活の場にしてきた人々だ。
尖閣の海は遠い昔から「閉じられた海」ではなく、周辺諸国の民が共に生き、互いをみとめあう「結びの海」であった。少なくとも僕が初めて訪ねた頃までは、国籍とは無関係に漁船同士が舷(ふなばた)を寄せ合って情報交換をしたり、互いに便宜をはかりあったりする習慣が残っていた。台湾漁民から僕が笠を入手できたのもそのあかしだ。彼らのことを「密漁者」などと表現すること自体、本来は不似合いなのだ。
尖閣が東アジアの「海の交差点」として、人々の笑顔が満ちるときーー。そんな日がくることを僕は願う。