森口豁 もりぐちかつ Katsu Moriguchi

森口 豁もりぐち かつ

Okinawa Under the Control of U.S. Military

Towards the end of the World War Ⅱ, Okinawa became a desperate battlefield with casualty of 230,000 people including civilians. Afterwards, it became separated from Japan, and set under the military control of the U.S. ― the winner of the War ― for more than a quarter of a century. Even after its return to Japan, American bases due to Japan ― U.S. military alliance, occupy 20% of Island of Okinawa. Most of these photographs shown here were precious testimonies captured during the American control of Okinawa.

米軍支配下の沖縄

第二次世界大戦末期、日米両軍が死闘を繰り広げ、住民を含む23万人の犠牲者を出した沖縄。戦後四半世紀余りの長きにわたり、日本から切り離され、戦勝国アメリカの軍事支配下に置かれた沖縄。その沖縄は、日米軍事同盟により、今なお島の20%が米軍基地。ここに紹介する写真のほとんどは、米軍統治下の沖縄を捉えた貴重な写真である。

図:物語の始まりthe begining of a story

B52 アイゼンハワーのパレード ウエルカム デモ デモで学生と警官衝突 海兵隊員アップ バスのなか 戦車と少年 金網越し戦闘機 宮森小・テントの少年たち 宮森小・千羽鶴の教室 海兵隊の看板に黒いリボン 祈る喪服の女性 フェンスにくくりつける女性3人 普天間滑走路 フェンス越しに祈る女性たち 戦争の爪痕(タテ) 戦争の爪痕(ヨコ) 喜屋武岬 道 光のシャワーが注ぐ森 砲弾着弾地の水たまり 辺野古とアメ車 辺野古の道をバスが行く グローブを頭にのせた少年 「帰れアメリカ」のプラカードを持った少年 B52抗議デモ みんな日本人のプラカードを持った少年 日本地図の描かれた校舎 クバ傘の男 家のなかにヤギ2頭 頭上に水瓶をのせた女性たち 「私達は日本人」デモ 米兵行軍 横長カット グスクで戦史研究する自衛隊員ら メーデー スピーカーと老人 久髙島上空を戦闘機が飛ぶ 伊江島の滑走路 空撮

「貝の町 浦安」 16歳のカメラアイ

古くは山本周五郎の小説「青べか物語」の舞台として、近年は「東京ディズニーランドのある街」、あるいは東日本大震災時、液状化現象が多発した街として知られる千葉県浦安市ーー。かつてこの街は、アサリやハマグリなどの貝漁で生きるローカル色あふれる漁師町であった。戦後間もなくこの町へ足繁く通い、人々の日常にカメラを向けた高校生がいた。森口豁だ。16歳の目に映った浦安の風物詩。


注:写真はいずれも1953年6月から54年9月にかけて猫実(ねこざね)、堀江両地区で撮影。※ 印の地名は、埋め立て地に付けられた地名。

図:物語の始まりthe begining of a story

江戸川の支流・境川が町の真ん中を流れる。全長3キロ、東京湾に注ぐこの川は漁師町・浦安の大動脈。岸辺にはさまざまな漁船が並ぶ。 干潮時 、漁民たちは「べか舟」や「まき船」と呼ばれる手こぎの船で一斉に海へと漕ぎ出す。※ 川の左側が海楽、右側が東野地区 人口は1万6000人あまり。専業漁師は約4割強だが、農業などとの兼業を含めると町民のほとんどが“貝産物”で生計を立てていた。 漕ぎ出す先は東京湾。遠浅のこの一帯は四季を通してアサリやハマグリ、赤貝の宝庫だ。※東野1丁目あたり。 「腰まき籠」と呼ばれる柄のついたカゴで、砂地をかき貝をとる「腰まき漁」。かなりの力仕事だ。※堀江地区沖合い とった貝は木枠のふるいにかけ、小さな稚貝を海に戻す。乱獲を防ぎ漁場をまもる、昔からの漁師の知恵。 貝は卸問屋を通して、大消費地・東京方面に出荷されたり、町内の佃煮工場に。 東京湾ではカレイやカニなどもよくとれた。 船を寄せ合い、あるいは路上で、売る人あれば、買う人あり。 佃煮工場に運ぶ前の「貝むき」は女たちの仕事。「むき包丁」と呼ばれる包丁で手際よく貝をむく。 ほら貝を吹き鳴らしながら托鉢に回る僧侶。 店先のネコ、我関せず……。 浦安のネコはアサリが好物!? 川沿いのメインストリート・猫実5丁目。 早朝、都心に向かう路線バスは、貝や魚を売る行商の女たちでいっぱいだ。 彼女たちは、20キロもの荷を背負って得意先をまわり、昼過ぎには疲れた体を帰りのバスに託す。いずれも猫実の旧浦安小学校前。 子だくさんの時代。子守りは子どもに課せられた大事な役割。 どの家族も子どもの数は5人前後が普通だった。 テレビはまだ“高嶺の花”。新聞社が貼り出す『週刊写真ニュース』は庶民の情報源の一つ。 子どもたちの楽しみは、毎日決まった時間にやって来る紙芝居屋さん。 1円玉を握りしめ、物語りの世界に……。 「再会」「片目の魔王」……。背後には映画のポスター。少年が夢中になっているのはナニ? 今川焼き屋さんと子どもたち。 今も昔も変わらぬ縁日風景。 1964年に始まった海の埋め立てで、市の総面積は4倍に。字数も3箇字から16箇字に増えた。※左側は美浜、右側は富岡あたり。 いまこの辺りはビルや住宅が林立する都市に変貌した。 『浦安町史』によると、明治末期の町民の平均年齢はなんと26.33歳。乳幼児の死亡率の高さが平均寿命を引き下げたという。 貝灰工場に運び込まれた膨大な貝殻の山。町内には何軒もの貝灰工場があった。 貝殻は貝灰に加工し、漆喰や肥料、鶏のエサとして商品化され、全国に販路を拡げた。 境川をはさんで町の背後には湿地帯や水田が広がっていた。しかし専業農家は少なく、多くは半農半漁だ。※猫実、堀江界隈。 町の南東部は主に葦や萱に覆われた湿地帯。河口近くの泥地では釣りのエサにするゴカイ採りをする人が……。※海楽、東野地区あたり。 護岸の修復作業。まだショベルカーやクレーン車は普及しておらず、何から何まで人力が頼り。 川は子どもたちの格好の遊び場。彼らは義務教育を終えると父親から櫂(かい)のあつかい方や漁を学び、一人前の漁師に成長していく。 川辺は地域の社交場。食器も漁具も洗えば、洗濯も川の水で……。 肩幅6~7尺、全長35~36尺の「打瀬(うたせ)船」。スギやヒノキ材を用いてつくられ、底曳網漁などに使う。1954年ごろを境に姿を消した。 浦安は江戸川をはさんで東京と向かい合う。浦安橋を渡れば都会は目の前。地の利の良さは、都市のベッドタウンとなった今も変わらない。

沖縄 こころの軌跡 1957-2000

沖縄の島々で暮らすウチナーンチュの日常生活を、「日本復帰」前から温かいまなざしで見つめつづけた。一方、米軍基地問題に対しては、生活者の目線で厳しく臨んだ。ジャーナリスト・森口豁の貴重なドキュメンタリー写真を順次公開。

図:物語の始まりthe begining of a story

初めて訪ねた伊是名島の浜辺で出会った腕白少年たち。この日、僕は靴も靴下も脱ぎすてて彼らと浜遊びに興じた。1960年 1キロ先の親島まで竹馬で海を渡って通学する子どもたち。冬の冷たい海風を全身に受けながら、広い海の上を30分かけて歩いていた。1966年、沖縄・久米島 ベタ凪の海から鳩間島を臨む。2002年 ワンポイント・リリーフで学校の廃校を防いだ小学生。1982年、沖縄・鳩間島 村の中を行軍する海兵隊員。在冲米軍の「主役」が陸軍から海兵隊にかわった「復帰」後は、住民地域での訓練はさらに増えた。1983年、沖縄県金武町 沖縄の軍事基地化は、アイゼンハワー大統領のこの沖縄訪問で不動のものとなった。1960年6月、沖縄・嘉手納基地第1ゲート付近 アイゼンハワー大統領が来た日。1960年、沖縄県那覇市 わがもの顔で公道を走る戦車の隊列。1960年、沖縄県名護市 村の中を戦車が走る。1978年、沖縄県旧金武村 米軍基地のフェンスにさえぎられ、いまも墓参りさえままならない老女たち。彼女らの前に立ちはだかるのは、なにを隠そう、沖縄への差別政策を改めようとしない「日本の壁」だ。1987年、沖縄県那覇市 来冲したアイゼンハワー大統領に「日本復帰」を訴える人たち。1960年、那覇市久茂地 那覇市内で繰り広げられた中高校生たちの「平和を祈る大行進」。「日本復帰」の時期さえまったく見通せないなか、若者たちの心は揺れていた。先頭集団の手には大きな「日の丸」が……。「私達は日本人です」の横断幕を手にした一団もいた。1965年 名護市辺野古は、海に面した平地の少ない人口600人そこそこの寒村だった。人々は海兵隊の駐留に「地域振興」の夢を託した。1957年 米海兵隊進駐をひかえ、特飲街づくりが進む。1957年、旧久志村辺野古 辺野古の歓楽街が潤ったのは、ベトナム戦争をはさむ一時期だけだった。1957年、沖縄県旧久志村 琉球弧の人々は海の彼方の楽土ニライカナイに想いをはせる。2000年、沖縄・大神島 沖縄・古宇利島のウンジャミ(海神祭)。2000年 沖縄・与那国島の墓地。1972年 豊年祭のムシャーマで男たちが演じる棒術。1959年、沖縄・波照間島 豊年を感謝する西表島の節(シツゥ)。祭は終日つづく。1973年、沖縄・西表島祖納 島をあげてサンゴを食い荒らすオニヒトデを駆除。1983年、沖縄・鳩間島 浅瀬ではタコ、干の内(ピーヌウチ)ではツノマタがよく獲れる。1974年、沖縄・鳩間島 過疎の島の別れ。1974年、沖縄・鳩間島 人頭税時代を知る西原モウシさん、89歳。1982年、沖縄・鳩間島 戦跡をめぐる京都の慰霊団。繁みにわけ入り肉親の遺骨をさがす。山野ではいまも4000柱近い遺骨が風雨にさらされたままだ。1959年、沖縄県旧糸満町 中城城跡の城壁に上がり、沖縄戦を「研究」する陸上自衛隊の幹部候補生。1966年、沖縄県中城村 基地入口に米軍が建てた「SHUREI NO MON」。米軍は沖縄の人々を「琉球人」と言っていた。1966年、沖縄県宜野湾市 返還まもない那覇の都心部。現在の泉崎。この一帯は米軍が物資集積所として使っていたが、1953年「第1号開放地」として返還された。1959年 「カメさん」を支えた夏。「瀬長亀次郎市長擁護」で保革が激しく対決した那覇市議選。民主主義擁護と基地撤去に、市民1人ひとりが燃えた選挙だった。1957年、沖縄県那覇市首里 日の丸を掲げ「日本復帰」を訴えたメーデー。「異民族支配を脱し、平和憲法下の日本に帰りたい」。会場の片隅でスピーカーから流れる演説にじっと耳を傾ける老人に、僕は沖縄の魂を見た思いがした。1959年、沖縄県那覇市 道ばたに座りこむ老女。2002年、沖縄・波照間島 村に子どもたちの歓声が響いた。1957年、沖縄県旧具志頭村 1960年、沖縄・伊是名島 「らい」をわずらった74歳の名嘉カマドさんは、村はずれのアダンとモクマオウの茂みのなかの粗末な茅葺きの家で、27年間ひとり暮らしを続けていた。1960年、沖縄・伊是名島 1960年、沖縄・伊是名島 与那国馬のいる村。1960年ごろ、沖縄・与那国島祖納 米軍に土地を追われ、沖縄島から石垣島に移住した一家。1950年代、石垣島には琉球政府の公募に応じて615世帯2805人が入植した。1962年 那覇市牧志の公設市場。1956年 台風で陸に打ち上げられたクリ舟。1959年、沖縄・与那国島

沖縄 孤島にいきる人々

沖縄には40の有人島がある。ジャーナリスト・森口豁は、そのうち30を超える島々を3度集中して歩いた。生活環境の厳しい島々で感じたことは、「何もないがゆえの豊かさ」だった。シマンチュ(島人)たちの喜怒哀楽に満ちた暮らしに迫った。

図:物語の始まりthe begining of a story

干ばつにあえぐ黒島。沖縄の島々では昔から水の悩みが尽きなかった。川のない小さな島は、日照りが続き水が尽きると、他の島からのもらい水で生きのびた。1963年 天水や井戸水に頼っていた時代、水くみは女たちの重要な日課だった。干ばつの年は枯れた井戸の前に女たちが並んだ。1963年、沖縄・久高島 離島の人たちの生命の糧、共同井戸は深いガマのなかにあった。2002年、沖縄・久高島 子守り。1963年、沖縄・久米島 木の幹に伝うしずくもためた。島々に水道がひかれたのは「復帰」から10年もあとだった。1974年、沖縄・鳩間島 水道がなかった時代、水がめやジェット機の燃料タンクに雨水をためた。1982年、沖縄・鳩間島 サバニが主流だったころ。1974年、沖縄・鳩間島 手こぎのサバニを自在にあやつり、追いこみ漁をする男たち。1974年、沖縄・鳩間島 小島通いの連絡船。乗客同士うたい、語り、楽しいひとときを過ごす。1972年、沖縄・多良間島 孤島の別れ。1972年、沖縄・多良間島 島を取りまくサンゴ礁は格好の漁場。きょうの獲物の名はシージャー、オジサン、シマダイにカワハギ……。家路を急ぐウミンチュ(海人)の足取りは軽い。1967年、沖縄・渡名喜島 西原モウシさん。畑仕事と水くみが彼女の腰を曲げた。1982年、沖縄・鳩間島 友だちを迎えた日。1982年、沖縄・鳩間島 洗濯、子守、ヤギのエサの草刈り……。日暮れまで野良仕事に出ている両親に代わって、子どもたちには山ほど仕事があった。教室で赤子をあやしながら授業を受ける子も少なくなかった。1963年、沖縄・伊平屋島 大臣(田中竜夫総務長官)を迎えた日。1967年、沖縄・石垣島 孤島で暮らす人々の生きがいは、毎年めぐってくる祭り。「祭りがあるから、またこの先1年を生きていける」と話す老女も。1972年、沖縄・宮古島 多良間の八月踊り。1973年、沖縄・多良間島 イザイホウ「花差し遊び」の日。1966年、沖縄・久高島 イザイホウの一場面、外間ノロの内間カナさんとウメーギの西銘シズさん。1966年、沖縄・久高島 イザイホウの一場面、神人になって集落に帰ってきた女たち。1966年、沖縄・久高島 八月ウマチー、健康祈願の日。1963年、沖縄・久高島 80年ぶりの大干ばつに見舞われた1963年の久高島。神んちゅたちが島びとの健康を祈願する久高島の八月まつり(ハティグヮティマッティ)。祭事は、米軍機の爆音の下で黙々と行われた 1960年ごろの沖縄・与那国島の集落。 辻で出会った老女。1972年、沖縄・与那国島

元気をくれる過疎の島

八重山諸島・鳩間島の人たちの戦後史は、出会いと別れの歴史であった。かつては600人もの住民であふれていた島は、1972年の日本復帰を境に激しい過疎化の波に見舞われ、現在の人口はわずか63人だ。いつ廃村になってもおかしくはない島の危機を救ったのは、海を越えてやって来た幼い子どもたちであった。1974年から40年にわたり見つめ続けた孤島のドキュメント。

図:物語の始まりthe begining of a story

鳩間小学校「廃校阻止」の役割を担わされ、石垣島からやってきたハヤオ君(6歳)。助っ人の来島が決まった日、校門前に立ち全身で喜びを表した。1982年4月 ハヤオ1人では長続きしないと、親の説得で沖縄本島から転校してきたのは2年生のミカちゃん。児童2人だけの学校生活が始まった。1982年4月、鳩間島 ミカちゃんは生まれながらに体が弱く、両親は医者のいない離島への移住を案じた。でも久々の子らの歓声に島の老人たちの心は和んだ。1982年4月、鳩間島 島のメインストリート。この道を200メートル東へ行くと鳩間小学校がある。中学校は74年春、生徒数がゼロになり廃校になった。1982年7月 屋敷内には大きな水槽が並ぶ。炊事も洗濯も雨水が頼みの綱。樋をつたって流れ込む雨水を蓄え、大切に使った。1974年3月、鳩間島 住む人のない廃屋も目立つ。子どもの進学や「カネになる産業」がないことも過疎化に拍車をかけた。1982年4月、鳩間島 島に流れる静かな時間。だが人口の少ない小さな島への行政の目配りはか細い。電気も水道も何もかもが後回しなのだ。1974年3月、鳩間島 鳩間島は西表島の北方7キロに位置する。周囲3.9キロ、面積1平方キロ。海の荒れる冬場は何日も船の便が途絶える。 農業も漁業も自給自足程度。石垣島の市場に出しても足代にもならない。離島のハンディが人々の肩にのしかかる。1974年3月、鳩間島 それでも島の人たちは小魚の群れを追って広い海にサバニを走らせる。潮風が男たちの歌声を運んでくる。1974年3月、鳩間島 叔父夫婦の里子になったハヤオ君は、すぐに島になじんだ。きょうは新調のスーツを着け、島の古老に入学のあいさつに……。1982年4月、鳩間島 水ぬるむ3月の海。加治工(かじく)のおばぁが大きなタコを捕まえた。鳩間のタコはお世辞抜きに美味しい。1974年3月 この季節、浜の近くでは貝や海藻もよく採れる。男も女も遠浅の海に出て思い思いに獲物をさがす。1982年3月、鳩間島 夏、朝からサバニを漕いで沖へ出たおじいがイカをたくさん釣ってきた。早速天日干しにしてスルメイカに。今夜には隣近所におすそ分け。1984年9月、鳩間島 旧暦7月の豊年祭の日。石垣島や沖縄本島からは数百人の鳩間出身者が里帰りし、祭りを盛り上げる。浜には豊漁を願って若者らが沖へ漕ぎ出す2艘のサバニ。海は限りなく青く目映い。1999年7月 祭りの日、最大の見せ場は各年代ごとの男たちが演じる棒術。年寄りたちは我が子に注ぐような熱い眼差しで若者たちの勇姿を楽しむ。1982年8月、鳩間島 1世紀近くにわたり鳩間島の盛衰を見つめてきた西原モウシさんは89歳。白髪の美しい礼儀正しい、そしてよく働く老女だった。1982年8月 秋、沖縄本島の養護施設から男女4人の上級生が転校してきた。ハヤオ君とミカちゃんは桟橋で一行を出迎え、手作りの花束を贈り歓迎した。1983年4月、鳩間島 西表島への転校で「在籍数ゼロ」のきっかけとなったシマちゃん(写真左)も2年後には鳩間島に戻って復学、生徒数は一気に3倍増に。この年は次々と新たな出会いが繰り広げられた。 ここ数年、たった1人の小学生でかろうじてつながってきた小学校。「これで廃村は免れる」と喜ぶ老人たち。島は子どもから元気をもらった。 廃校になっていた中学校も10年ぶりに開校した。一度廃校になった学校が再開されるのは極めて珍しい。1984年4月、鳩間島 寂しさに耐え、ワンポイント・リリーフで学校をつないだ幼い子どもたちも、八重山地方伝統の集団演舞「まみどうま」を踊り、祝いの座をわかせた。1984年4月、鳩間島 島人たちの出会いと別れを見つめ続けてきた1本の細く長い桟橋。あの日々から40年、いま一帯は埋め立てられ、ターミナル建て屋を備えた浮き桟橋に変わった。1974年3月 別れのとき、人々は「さよなら」を言わない。うち振る手は左右にではなく、上から下へ、下から上へ、あたかも「おいでおいで」をしているように、上下に優しく振られる。きっとまた、必ず会えるときを願って……。1974年4月、鳩間島

イザイホー 女が神になるとき

沖縄の久高島にかつてイザイホーといわれる秘祭があった。12年に1度の午年に行なわれる神聖な神事だ。参加できるのは30歳から41歳の島生まれの女性のみ。だが、急激に進む過疎化で有資格者が絶え、1978年を最後に姿を消した。1966年12月、神秘のベールを脱いだ「幻の神事」イザイホーの貴重なドキュメント。

図:物語の始まりthe begining of a story

旧暦11月15日の夕闇迫るころ、白衣に身を包んだ30歳から41歳までの女たちが広場へ向かう。 琉球民族発祥の地・久高島は「神々の島」としても名高い。イザイホーはノロを頂点とする神職のもと、古式にのっとり厳粛に営まれる。 5日間にわたる様々な儀式を経て彼女たちは「ナンチュ」となり、久高島の祭祀集団の仲間入りを果たす。 老人たちは威儀を正して「ナンチュ」の誕生を待つ。  子刻が近ずき、空に満月が顔を出す。静寂が一帯を包む。 イザイホー最大のヤマ場「七つ橋渡り」が行なわれる神アシャギ(祭祀をおこなう小屋)。四囲をクバの葉で覆ったこの小さなアシャギに女たちはこもる。 白装束に洗い髪、裸足姿で集落を駆け抜けた女たちは、エーファイ、エーファイと甲高い叫び声を上げながら神アシャギ入口に掛けられた橋の渡りを七回繰り返す。 橋と言っても地面の上に細木を並べただけのものだが、現世と未来をつなぐ橋とされ、鬼気迫る渡りは、厳粛さと緊張感がみなぎる。 5日間の神事の間、乳幼児は祖母らに預けられ、授乳のときだけ母親と会うことができる。 神職は12歳刻みで3つの階級に分かれる。先輩たちは温かな眼差しで新たなナンチュの誕生を待つ。 女たちがアシャギの中に姿を消すと、やがて神歌の唱和が始まる。地をはうような調べが時の流れを止める。 古来、沖縄は姉妹が兄弟を守る「オナリ神」信仰の邦。旅の安泰や稲、粟、麦などの成育もオナリ神がもたらすと信じられている。 3日目、神女合格認証の日。神アシャギの前では、認証式の準備も整った。 1966年12月、久髙島 最高位のノロによる餅付けの儀。両方のほおに柔らかな餅で押印する。 根人(にーっちゅ)と呼ばれる男による、朱付けの儀。額におされた朱が鮮やかだ。彼女たちはこれで晴れてナンチュとなり、島の祭祀集団の一員となる。 島びとの営みは半農半漁。沖縄本島などへの出稼ぎ者も多い。人々は神行事を精神的支えに生きる。 静と動、純白の衣装に赤と黄の紙かんざし。女たちの所作は気品に満ち、民俗学者たちをもうならせる。人を、神を信じることの素晴らしさを教えてやまない。 ナンチュになった西銘節子さん。とても晴れやかだ。彼女はこの3年前、僕が久高島を舞台に撮ったテレビドキュメンタリー「乾いた沖縄」(1963年)の主人公だ。 ノロの外間カナさんと、そのノロに仕え、ハレの日の儀式一切を取り仕切った西銘シズさん。 ナンチュの誕生を神々に報告し、お披露目する「花さし遊び」の日。外間ノロがうたう神歌に合わせ、神女たちの舞が始まる。 広場いっぱいに円陣ができ、その輪は次第に大きくなり…… エーファイ、エーファイの掛け声とともに円舞がはじまる。 エーファイ! エーファイ! エーファイ!  エーファイ! ………。疾走する女たち。かぐわしい体臭を一陣の風が運ぶ。 何百年もの昔から続いてきた神々の祝祭。古老の目にどう映り、老女の頭にどう焼き付いたか。 1966年12月、久髙島 ナンチュになった女たちは、広場に集まった人々に神酒を振る舞う。 人口600人に満たない小さな島では、誰もが家族同然。人々は互いの成長を喜び合う。 1966年12月、久髙島 1966年12月、久髙島 正月を目前にした旧暦12月、南国とはいえ陽の差さない日は寒い。ナンチュになった彼女たちは忙しい。ノロの家で、それぞれのナンチュの家で様々な儀式がある。 最終日を翌日に控え、18日は村の男たちも加わって綱引きの儀式。 「アリクヤーの綱引き」といわれるこの儀式は、舟でニライカナイの神々を送る儀式という。 イザイホー最終日。この夜は島びとの誰もが広場に集い祝宴。サンシンの音に合わせカチャーシー。 西銘節子さんも普段着姿で広場中央に飛び出して舞った。悦びを超え、恍惚感に浸っているかのようだった。 じわじわと島に忍び寄る過疎の波。しかし、人々は明日を信じて日々を送る。

沖縄…美ら海、美ら島

年間平均気温が摂氏23度を超える亜熱帯の島・沖縄ーー。木々を伝う風は優しく、寄せ来る波は穏やかだ。四季を通して咲き誇る草花が、人びとの気持ちをなごませてやまない。ウチナーンチュの心のやさしさは、こうした自然が育んだに違いない。

図:物語の始まりthe begining of a story

宮古諸島・多良間島 クリ舟(沖縄名 サバニ)。1963年、八重山諸島・黒島 径にて。八重山諸島・竹富島 赤瓦屋根の家。八重山諸島・鳩間島 石垣のある集落。1960年、竹富島 ハイビスカス(沖縄名:アカバナー)の花。八重山諸島・西表島 仔山羊。鳩間島 アカバナーの咲く集落。黒島 ハイビスカス。西表島 月桃(沖縄名:サンニン)の花 日日草やセンダンクサの咲く庭。沖縄本島・名護市 窓辺のヤモリ(沖縄名:ヤードゥー)。鳩間島 クルマの墓場。八重山諸島・石垣島 過疎の島の夕暮れ。宮古諸島・水納島 漁に出るサバニ。1974年、鳩間島 夕焼けの東シナ海。那覇市 モモタマナ(沖縄名:クヮーディーサー)の若葉。沖縄・糸満市 ブーゲンビリア。西表島 ソテツ(沖縄名:スーピチャ)の若葉。鳩間島 カンナ。鳩間島 日日草と巻貝。鳩間島 浜にて。鳩間島 人口4人の島の浜。2000年、宮古・水納島 水納島 水納島 水納島 水納島 テーブルサンゴ。1974年、鳩間島 サンゴ礁での潮干狩り。2001年、宮古島沖の八重干瀬(沖縄名:ヤビシ) 傷めつけられるサンゴ礁。2001年、ヤビシ 辺野古の浜に咲くハマユウガオ。2012年、名護市 アダン(沖縄名:アダンギー)の実。水納島 アダンの木。水納島 短い秋。沖縄本島・恩納村 標高26.9mの島。本部町・水納島

旧「満州」 支配の痕跡を歩く

「広大な沃土」と「王道楽土」を求め、かつて多くの日本人が移り住んだ中国東北部・旧満州。その数、実に30万人。「開拓」という名の収奪と「建国」の名による支配ーー。その痕跡を訪ね、駆け足の旅をした。日露戦争の激戦地・旅順への外国人の立ち入りが禁じられていた時代と、改革・開放の進む2000代初頭。そこで目にしたものは…。

図:物語の始まりthe begining of a story

国策に踊らされ、老いも若きもが「北へ」「より奥地へ」と侵略の轍(わだち)を刻んだ中国東北部の大地。以下の写真8点はいずれも2002年9月、黒龍江省・チチハル市郊外の臥牛吐(おにゅと)村で撮影 沖縄からの900人を含む日本人開拓団が入った臥牛吐村は純農村。「開拓団は私たちを追い立てて土地や屋敷を奪い、ここに住みついた」と村人は語る。 地元民が村に戻れたのは日本の敗戦後。冬場は野も畑も凍りつく寒冷地だが、トウモロコシや野菜作りに励み、生活を再建した。 時が移ろい「あの時代」を知る人は少なくなったが、日本人の来訪を聞きつけ若い人たちも笑顔で集まってきた。 1945年8月、突如参戦したロシア軍がこの地に押し寄せたとき、村民は多くの日本人をかくまい、助けたという。当時の村長が命がけで村民に呼びかけた「人道」。 臥牛吐村は朝鮮系民族が多く住む村。この女性にもそんな風情が漂う。 農家の庭先。 土壁に板ぶきの屋根。どこの家でも庭先まで作物を植えていた。 旅順口(港)遠景。日露両国はこの港湾争奪のため海陸で激戦を展開。両軍合わせて10数万の死者を出し、日本が勝利した。2002年9月、遼東半島・大連市旅順口区の203高地から 現在は中国北海艦隊の主要基地として、また観光地として整備が進められている。この写真は旅順が「未開放地区」だった1992年9月 まだあどけなさの残る人民解放軍海軍兵士。1992年9月、旅順港内 旧旅順監獄。1902年ロシアが建て始め、1907年日本が完成させた。現在は「青少年教育基地」として公開されている。以下の写真5点はいずれも2002年9月 獄舎内には独房や雑居房、取調室など275室があり、日本時代は常時2000人もの「抗日政治犯」であふれかえっていたという。 拷問台。仰向けにしてベルトで全身を固定し、大量の水を飲ませて自白を強要した。 伊藤博文・元首相をハルビン駅で暗殺した朝鮮の「抗日烈士」安重根もここで処刑された。安の遺骨の行方は今なお分かっていない。  処刑前、安重根が遺書をしたためた部屋。机の上には硯(すずり)と筆が…。 旅順港攻略の主戦場となった203高地頂上に立つ砲弾を模した巨大な慰霊塔。塔には帝国陸軍大将の揮毫(きごう)。塔の周囲はさながら兵器の展示場。2002年9月 帝政ロシアが東鶏冠山に築いた強固な堡塁(ほうるい)。周囲496m、面積9900平方m。壁の厚さは2m。内部には司令部や弾薬庫、治療室などがあった。2002年9月 堡塁(ほうるい)の周囲には高圧電流の流れる電線が引かれていたという。日本軍は8000人の死者を出し攻略した。2002年9月 731部隊が生体解剖を行なっていた関東軍防疫給水部のボイラー室跡。2002年9月、ハルビン市平房 人民解放軍の女性兵士。以下の写真5点はいずれも1992年9月、大連市内 路地裏の「愛国心」 子どもは王様1 子どもは王様2 野菜売り場 大連市旅順近郊の漁村。1992年9月 連市旅順近郊の漁村。 日中戦争の発火点となった盧溝橋。1937年7月、この橋の近くで演習中の関東軍が突如中国軍に攻撃を仕掛け、以後8年間におよぶ戦争になった。1992年9月、北京市郊外 日中戦争の発火点となった盧溝橋。 鼓楼(ころう)。「鐘楼」とも呼ばれ、古くから太鼓や鐘の音で時を告げていた。  1992年9月、北京市内 歩道上に自分自分の特技を書いた紙を並べ、職を求める男たち。1992年9月、大連駅近く 求職者たち。 巨大な露天掘りの炭鉱。かつて「満鉄のエネルギー源」だった石炭だが、いまは斜陽。1992年9月、遼寧省撫順市郊外 厳しい労働を終え、トラックで寮に帰る炭鉱労働者。1992年9月、撫順郊外 夕陽をうけ、静かに時を刻む旧満州農村部の広野。1992年9月、チチハル郊外